現実から逃避するようにして陳舜臣の十八史略とか、司馬遼太郎の項羽と劉邦とかを読んでます。

読んでわかったのは、近世くらいまでの日本史やるのに、ほんとはこっちの知識が必要だったのね、ということ。
7世紀以降の中央の人たちは、あちらの史書をがっつり読み込んで参考にしていた度合いが、たぶん、通り一遍の私の想像より、遙かに強い。

そうすれば、私は大学入試当時、日本史世界史のダブル選択だったのですが、あんなに脳筋肉をフル回転させなくてもよかったのだわ。。。。

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①王と天皇
唐代くらいまで読み進めましたが、朝鮮半島では元首は「王」、日本では聖徳太子以来「天皇」を使って(使えて)ますよね。

なんでか、がわかった。

朝鮮半島は、すぐ横に「皇帝」がいたからですね。
中国の勢力圏では、中国だけが「皇帝」という意識があり、自分らは「皇帝」にはなりえなかった。
じっさい、皇帝を名乗ったら、謀反扱いですぐ討伐にこられたろうし。

その辺、春秋時代に、中原の諸国は「公」をなのり、楚だの呉越だのは「王」を名乗ったのを知ってたら、よく理由が分かったはず。

中原はひとつの政治的に完結した領域と思われていて、王はもちろん、一人(天に二日無し)。
周王のみです。

だけれど、楚とか呉・越は、その中原からはずれている。

中原の「王」の領域外だ、という意識があるから、中原の王に並ぶ存在として、王を名乗れた。

中国の元首の領域は、朝鮮半島までは及んでも、自分らの日本には及んでないでしょ。

そういう意識が、あの時代のあの人(聖徳太子)には、あったはず。
自分らは、中原に対しての楚のような存在だと。
きっとそう思って、天皇の呼称使用にふみきったのでしょう。

もちろん、中国文化圏の人たちは強気ですから、「日王」ですけどね。
あちらからは。

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②戦国時代のプロトコル

すごいなあと思ったのは、春秋・戦国時代、外国との交際・戦争に当たってのルールやプロトコルが存在していたということ。

もしろんそれは、周代の慣習そのものなのだけれど、おなじ国際法を共有している中での、共存であり、戦争だったのね。
ということ。

確立した国際慣習法を共有する同士での交流・戦争というのが、どんなにスムーズか、というのをまざまざと見た思いです。

今の世界はこんなに苦労しているのに。

外国の王が他の王を見送るのは国境まで、とか、国君の礼と諸侯の礼と、その他の礼と、それぞれ格が違うのとか、降伏の際の国主の服装はこうこう、とか、それらがちゃんと共有されている。
もちろん、倫理・価値観も共有されている。

そして、思いっきり、家産国家観、です。

ヨーロッパの貴族・王室の社会みたいな感じですね。

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つらつら思うことはたくさんあります。。



コメント

シゲ
2010年6月24日1:11

柵封体制において「王」は、皇帝にしたがう諸国の「王」という意味だったのではないか?と思いますが。
「かんのわのなのこくおう」って印も中国からもらったものなわけですから、「皇帝発行の役職」でしょうね。

で、確か「天皇」という言葉は、7世紀だったか8世紀だったか天智天皇から使われたのではなかったでしたっけ? 確か「天のすめらぎ」っていうのは北極星の事だそうですよ。

「天」というのは、中国においては神様とかそういう意味があるらしく、天命による放伐を肯定しているのが中国ですから、皇帝はころころ変わりますが、北極星は天に鎮座して変わることがないというあたりが、ちょっと違う。わざわざ「天皇」としたところに柵封体制から抜け出ようとした「あがき」が感じられるように、僕は思います。

どん太
2010年6月24日1:25

シゲさん

>柵封体制において「王」は、皇帝にしたがう諸国の「王」という意味だったのではないか?と思いますが。

ええ、そうです。
周代の「王」に対する「公」が、秦代以降の「皇帝」に対する「王」ですね。


>7世紀だったか8世紀だったか天智天皇から使われたのではなかったでしたっけ?

いつかは特定されていません。天寿国繍帳などにある記述から、推古朝であろうとされています。

>柵封体制から抜け出ようとした「あがき」が感じられるように、僕は思います。

日本は柵封体制には属した歴史をその頃もちませんでしたので、あがく必要はなかったでしょう。

秦が「三皇五帝」から「皇帝」を作ったように、当時までにあった史書その他から「天」と「皇」をつなぎ合わせたのでしょうが、どういう経緯だったかは、想像するほかないですね。

ちなみに、唐の高宗の時に一時、則天武后が夫を「天皇」にしてますね。
こちらには、旧来のイメージが付与された皇帝と皇后から脱却しようとした「あがき」のにおいはぷんぷんですね。






どん太
2010年6月24日9:20

あ、そうそう、三皇というのは、「天皇、地皇、泰皇(人皇)」の総称だそうですから(史記の始皇帝本紀では)、その一番上の天皇をとったのかもしれませんね、日本の、この名称の創設者は。

(どん太)

シゲ
2010年6月24日15:40

>日本は柵封体制には属した歴史をその頃もちませんでしたので、あがく必要はなかったでしょう。

え?そうだったんですか。それは知らなかった。
うーむ。もうちょっと勉強せねば。
ちゅうことは、卑弥呼の時代より後には、日本は独立国としての立場を作り出してたということですか? 日出ところの天子の聖徳太子以降ということですか?
ずっと日本は中国からの侵略におびえていたんだ、という意識があったので、なんか勘違いしてるんですかね?

どん太
2010年6月24日21:23

シゲさん

中国が日本だの朝鮮半島だのに目をつけて、侵略の色気を見せる時期って、かぎられているんです。

あっちが統一されていて、国力充実してる時期、ですね。
日本が白村江の戦いをやらかしたころは唐の高宗(実権は則天武后)のころですね。
あのころ、唐は百済を併呑し、のちに高句麗を併呑し、と言う感じで、破竹の勢いでした。
そのころは中国からの侵略は、「いまそこにある危機」だったと思います。

ですが、卑弥呼の頃は中国からの侵略圧力があったわけでなく、単に卑弥呼自身が国内の紛争を有利にするためかなにかで朝貢した、だけでしょう。
この時点で形式は柵封されたかのように見えるとしても、その実質はなかったでしょう。
倭王讃珍済興武の時代も南北朝期で、日本への侵略圧力があったわけではありませんでしたし。

柵封の形式はとったかもしれませんが、中国大陸や、朝鮮半島の民族・国家がそうだったような臣従関係は、なかった、というのが実際でしたでしょう。


シゲ
2010年6月24日22:07

ふむふむ。なるほど。
卑弥呼の時代は、それこそ吹けば飛ぶような田舎の国だったわけですね。
国内統制のために柵封体制が便利だったわけだ。

卑弥呼の太陽が隠れる神話って、ようは日食の事だろうし、それが「神の怒り」とかで通用してたわけだから、かなり中国からは遅れてますよね。そんな天文的な事は暦の知識のあった中国では当たり前の事だったでしょうし。

そういう事ですよね。

どん太
2010年6月24日23:16

シゲさん

>吹けば飛ぶような田舎の国

中国基準で見たとき、国のていをなしていたかも疑問というか、魏志の書き方からすると、国であったという認識ではないようにも思えます。
集落国家の類だという認識ではないかと。

中国はそのころすでに1000年以上、「国家」と「国際社会(春秋戦国以来の)」を経験しています。

上でも書きましたが、慣習国際法とか、国際礼譲とか、そんなものが確立している古代社会って、すごいと思います。

いまの憲法なんかで話す、「領域内の主権」とか「他国との交渉をする法主体としての主権」といったことが意識されていたはずです。
そのふたつは分離していなくて、一人の「公」または「王」に留保されていたわけだけれど。

>国内統制のために柵封体制が便利だったわけだ。

冊封は、国内ではなく、あくまで「周辺国」との関係のためのものだと思います。
すぐ北、すぐ西の民族とはその後も濃密な関係がきずかれるので、そちら方面はきわめて実効性があったのでは?

でも、卑弥呼に冊封したからといって、たとえば今の日本の領域の、他の君主が逆らわない、というのは保障されないのですよね。
卑弥呼が領域国家を作っていたわけではないから。。。

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