ポップサイコロジーならぬ、ポップスピリチュアルとでも呼びたいモノ。。

「この世に起こることにはすべて意味がある」
「死んだ者は、そういう死を生まれる前に選択してうまれてきたのだ」
(とくに不幸な死を遂げた者について)

という考え。

このふたつってよく一緒に語られるのですが。。。
意味ってそういう意味かよ!と言う感じなのですが。。

きっと、でどころがあるのでしょうが、勉強不足で、どこがソースなのか、私は知りません。

たぶん、スピリチュアリズムとか、スピリチュアルカウンセリング(えはら某のやるやつ)とかで多用されているのでしょうが。。。



こういう話、まえから不気味だと思っていました。

不慮の死を遂げた人(子供)の近親者を慰めるには、
「その人はそういう風に死ぬことを、誕生前に選択して生まれてきたのだ」
といって、特にその死に責任を感じている者の心の重荷を取ってやる。。。

のはかまわないと思いますが、

それを永遠普遍の真理かなにかとかんちがいして人に語ると、すごく変なことになると思います。



だって。
「同じコトを、親から虐待を受けて死んだ子の死を悲しむたとえば祖母とかその子のお友達とかに言えますか」

ということで。。。

「いえ、この話は事故や病気などで死んだ子にだけあてはまるもので、
親に殺された場合は入りません」とでもいうのでしょうか。

「人を見て法を説く」のたぐいなら、これはカウンセリングだし、方便なのでして。

永遠普遍にそういう事実(ある死に方をした人は、その運命を選んで生まれてきた)があるのだと信じ切っているなら、それも一つの信仰だろうとは思うのだけれど。

信じているなら、祖母やお友達にも言える訳ですよね。

「あの子はね、親に殺されるために生まれてきたのよ。だから悲しまなくていいの」

その考え、はっきりいって気持ち悪いです。

「そんなことあるわけないだろ」といいたいわけではないのです。
検証できないのだから「そんなことはない」とも否定できません。

でもねえ。。。

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もしも「人は死のかたちを自ら選んで誕生してくる」のなら。。。


原爆で一瞬にして死んだ幾千の人も馬も犬も猫も、
原爆で一瞬にして滅ぶ人生を「選んで」生まれてきたんですかね。。。

そう信じることでほんとに「慰められる」のだとしたら、
わたしはそういう人が心底怖いです。
不気味です。

たしかに、そう信じてしまえば、世の中の不幸に心を痛めることは、なくなるかもしれません。

幸福な感情停止、思考停止がやってくるでしょう。


不幸な運命に落ちた人への同情を全く持たずに済むのは、心が軽くていいかも知れません。

でも、そんな思いこみ、私は抱えたくない。

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もしその「誕生前の選択」がかならず既遂に至らねばならないのなら。

米国は原爆を落とさなくちゃならないし、
911で飛行機をビルにあてないと行けない。

そういう運命の人にそれを提供しないと行けませんからね。


また、 横浜事件ででたらめな嫌疑で獄につながれ、そのまま獄死した人は、 そういう人生を本人が選んでうまれてきたのだから、いいということになる。


すごく冷酷非道な、そして現状に何の改変の力ももたらさない考え方だと思います。

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また。。
ヒトラーとか、ゲッペルスとかは、
あるいはニクソンとかも、
「人を沢山殺そう、そういう人生を選択しよう」

と思って生まれてくるのでしょうかね。。。。
人が人生の形を選択して生まれてくるなら、彼らについては、そうだったということになる。

まあ、そうかもしれません。

でもだから「そこには意味があって、それでいいのだ」とは、
普通思えないでしょう。
(思えるのだとしたら、もう何も言いませんが。。。)

もしも、個々人が生まれる前に「望んで」「選択した」ことにつき、
その後関係した人々はなんら改変できないのだとしたら、

空しくなりませんか?

ヒトラーに対して戦いを挑むとか、ベトナム戦争に反対するとか、
いくらやっても、為政者は人を殺し続けるし、
兵士は殺され続けるのだと。

そう思うのも、宗教を信じるのと一緒で、「あり」ではありますが。。。


CS患者が苦しみ続けるのも、苦しむ人生を選択したのだから、
誰も改変する努力をしないでいいし、責任を感じなくていい。

うーん。。。。

私は信じたくない信仰内容です。

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うーん。。。でもなんかそんな気もしてくるなあ。

世の中の暗い話を聞く度、心が暗くなるので、「そういう選択を被害者もしているのだ」と思いたい誘惑にかられることもない訳じゃないですが。。

為政者は被支配者を搾取し、いじめぬくし、
被支配者はいじめ抜かれ、殺される。

これはそれぞれが望んでそうしているのだとでも思わないと、
救いがないのかも。。

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しかしこれって、とことん、加害者フレンドリーな考え方ですね。

「被害者は、自分でそれを望んでいたのだからかまわない、きにしなくていい」って。。。

いったい、誰がどこではじめに広めたのでしょうか。。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3

これをみると、「聖なる予言」とか「神との対話」あたりが最初なのかな?

私はこの辺、最初の数行で苦痛を感じて挫折しましたが。。。


ウィキでもいうように、これって明確な、体系だった教義や組織、教祖を持たない、けれど教義の断片、ですよね。


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もちろん、「物事には意味がある」ことは私も否定しません。

というか、このテーゼには意味がない。

意味のない物事というのは、存在しないでしょう。

どんな事象にも、意味がある。

しかし、その意味が必ず肯定的なものとは限らない。

ここで「意味がある」といわれている「意味」とは、
きまって

「積極的な価値」とか
「積極的な意義」

とかに置き換え可能な「意味」です。

でも、そうとばかりもかぎらないでしょう。

いいじゃないですか、ネガティブな意味があったって。

まして、

かならず

「それを選んで誕生してきたのだ」などと、検証不能のテーゼを振り回さなくたっていい。


悲しい事態に直面した人がいたら

「ほんとに悲しいですよねえ。。。」

というだけでかまわないと思うのです。


悲しいのだから。

「そんな悲しい事態を引き起こすことを、死者ははじめからのぞんでいたのだ」

なんていわなくたって。

いや、それで悲しみが癒えるならいいですけれどね。
悲しみを癒すための方便なら。


でもわたしなら、そんな作為を弄さずに

「悲しいですね」だけのほうが、誠実に感じます。


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