最近は余り聞きませんが、
むかし、中年の域に(或いはそれより前)さしかかった女性で
「誕生日が来てもうれしくも何ともない。年を取ってしまうのが嫌」
というのをよくききましたっけ。
昔の女性は、必ずと言っていいほど、年齢を隠しましたしね。
でも、私その感覚、ついていけません。
年を取らないと言うことは、その年で生命を終える、ということでしょう?
死んでしまうより、長生きして年を取った方がなんぼもうれしいです。
誕生日を迎えると
「ああ、どうやら無事にこの年齢を迎えることができた」
とうれしく感じます。
特に、癌をやってからこっちは、本当に実感こもって、そう思います。
もしかしたら、今頃は私はこの世にいないのかも知れないのだから。
今後だって、あとどれくらい、生きられるかわからないんだから。
それが、生きてこの世にいて、この年齢まで、長らえることができてる。
うれしいことではないでしょうか。
------------------------------
まあ、「年取るのが嫌」というのは、わがままな話です。
(いや、わがままがダメ、とかいう話じゃないです。
わがままは人の常)
でも、いってる本人は、わがままだとは思ってないでしょう。
自分の生は、続くのが当たり前だと思ってるから。
あわよくば、若いまま、生存し続けたい、んでしょうね。
ありえないのに。
-------------------------------
私は私で、別のわがままをよく言います。
いわく、体がしんどい。
もっと体調良くなりたい。
人に言わせれば
「コップに半分しか水がない、と文句を言わずに、
半分も水がある、と喜びなさい」
となるのでしょう。
今の体調でも、生きてるだけましと思え、と。。。
でもねえ。
思うのですが、人間、自分の抱えている「前提」を、
そう簡単には変えられないですよね。
長生きできるかわからない私には、生存自体がありがたいこと。
でも、生存していた期間、健康だった時間の方が長いので、
「生存してる間は健康だ」というのが私の頭のなかで、
前提になってる。
こんなに体の調子が悪いのは、なげかわしいことなんです。
おんなじで、
「長生きできるのがあたりまえ」「当然の前提」
と言う人には、今まで生存を続けられた、なんてことはありがたくも何ともないことで、ただ年を取ることが、噴飯モノの嫌なこと。ということになる。
要はどちらにしろ、自分が生きてきた中でつくりあげた、前提次第なんですよね。
コップの水の評価を変えることは、いざ迫られてみると、いかに難しいか、わかると思います。
(それをわかったうえで、このたとえを言う人は、言ってるのかなあ。
あまりわかってないんじゃないか?経験的にそんな気がするぞ。。)
むかし、中年の域に(或いはそれより前)さしかかった女性で
「誕生日が来てもうれしくも何ともない。年を取ってしまうのが嫌」
というのをよくききましたっけ。
昔の女性は、必ずと言っていいほど、年齢を隠しましたしね。
でも、私その感覚、ついていけません。
年を取らないと言うことは、その年で生命を終える、ということでしょう?
死んでしまうより、長生きして年を取った方がなんぼもうれしいです。
誕生日を迎えると
「ああ、どうやら無事にこの年齢を迎えることができた」
とうれしく感じます。
特に、癌をやってからこっちは、本当に実感こもって、そう思います。
もしかしたら、今頃は私はこの世にいないのかも知れないのだから。
今後だって、あとどれくらい、生きられるかわからないんだから。
それが、生きてこの世にいて、この年齢まで、長らえることができてる。
うれしいことではないでしょうか。
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まあ、「年取るのが嫌」というのは、わがままな話です。
(いや、わがままがダメ、とかいう話じゃないです。
わがままは人の常)
でも、いってる本人は、わがままだとは思ってないでしょう。
自分の生は、続くのが当たり前だと思ってるから。
あわよくば、若いまま、生存し続けたい、んでしょうね。
ありえないのに。
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私は私で、別のわがままをよく言います。
いわく、体がしんどい。
もっと体調良くなりたい。
人に言わせれば
「コップに半分しか水がない、と文句を言わずに、
半分も水がある、と喜びなさい」
となるのでしょう。
今の体調でも、生きてるだけましと思え、と。。。
でもねえ。
思うのですが、人間、自分の抱えている「前提」を、
そう簡単には変えられないですよね。
長生きできるかわからない私には、生存自体がありがたいこと。
でも、生存していた期間、健康だった時間の方が長いので、
「生存してる間は健康だ」というのが私の頭のなかで、
前提になってる。
こんなに体の調子が悪いのは、なげかわしいことなんです。
おんなじで、
「長生きできるのがあたりまえ」「当然の前提」
と言う人には、今まで生存を続けられた、なんてことはありがたくも何ともないことで、ただ年を取ることが、噴飯モノの嫌なこと。ということになる。
要はどちらにしろ、自分が生きてきた中でつくりあげた、前提次第なんですよね。
コップの水の評価を変えることは、いざ迫られてみると、いかに難しいか、わかると思います。
(それをわかったうえで、このたとえを言う人は、言ってるのかなあ。
あまりわかってないんじゃないか?経験的にそんな気がするぞ。。)
コメント
「もっと辛い人もいる。あなたはまだマシな方」という励まし(?)も苦手です。
両方とも辛がっている人の気持ちを無責任に否定してる感じがするので、私だったら口が裂けても言わないと思います。 ・・でもコップの水の話は乱用されてるみたいですね。
ええほんとに!
>両方とも辛がっている人の気持ちを無責任に否定してる
おっしゃるとおりだと思います。
コレ言う人は、根本的に、共感性低いんだろうなあと
思うことにしてます。
コップの話、もともとはなんなんでしょうね。
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」式の諦観をとくものじゃ、
なかったんでしょうけれどね。。。
コップの話、当座の危機を見方次第でポジティブシンキング!くらいの軽い意味だったと思うんですけどね。
何か変わっちゃったみたいですね。「半分も残ってるんだから贅沢言わずに”一生”我慢してろ」みたいに。コップ満杯が好きならそれを求めても全然OKでしょうに。
うーん。僕は逆に、コップ半分の水の話はとても好きです。
もともとは、どんなものにもモノの見方は2通りあって、どちらを取ってもかまわないのだ、というディベートの技術の大前提のお話ですよね。
で、僕はやっぱり「半分も入ってる」ととらえる方が好きです。
もちろん、法廷で検事と弁護士がまったく逆の立場を「堅持する」ことで、あたかも事実が2方向からあぶり出されて、いわばCADデータを図面に落とし込んだ時のように、別方向からの視点によって物事が立体的に見えてくるという反証の効用ということが、もっとも大切な事ではあります。
でも、しかし、じゃぁ、自分の立場をどっちに置くかというと、基本は「半分もある」の方に置いた方が、気は楽なように思いますね。
それと、人間には無意識というものがありまして、胃や腸を意識でコントロールできないように、「悪いことが起きるんじゃないか?」と心配してると、やっぱり胃病になりがち、という話もありますからね。
で、人間、というか動物は基本的に「悪いこと」に敏感なようにできてる訳ですよ。あたたかい陽射しの中ではゆっくり寝てますが、火事になったらちょっとした臭いで飛び起きますし。そうしないと生命が維持できない。
だから、もともと、ついつい悪い方に考えがちで、その「悪く考える」ばかりをやらないようにするには、「いつも良いことを考えておいてちょうど良い」って事になるんだと思います。
もともと「悪く考える方」に身体感覚が調整されてるって事ではないかと。
実際、交通事故で電信柱にぶつかる事故が多いのは、「あれにぶつかっちゃいけない!」と悪いことを考えるからなんですね。脳みそは「~してはいけない」という反語までは瞬間には処理できないわけですよ。見たものに突っ込んでいってしまうんです。反射というのはそういうものです。
だから、そういう不意の事故が起きた時に「あそこにぶつからないように」と反射的に考えるクセをつけずに「あの隙間を通れば助かる」と「良い方の選択肢」をつねに選べるように、日々訓練しておかないとダメだ、って話だと思うんですよ。
だから、理屈はどうでもよくて、とにかく「良く考えるクセをつけておけ」という事だと思うのですよ。でないと反射的に動かないと行けないときにミスをする。
つい「電信柱にぶつからないように!」と考えて電信柱を見て激突する。
コップ半分の水の話を、「良い方に受け取りなされ」と言うのは、「とにかく理屈は別にして、そういう風に体にしみこませておいた方が良いよ」という生活の知恵が、説明もなく流布された結果なんじゃないですかね。
まぁ、理屈もへったくれもなく「良い方に受け取れ!」ばかり言われたら、イライラ来るとは思いますが、まぁ「反射運動」になるくらいまで「良い方に受け取る」をしないと効果がないんだ、と思えば、腹も立たないのではないでしょうか?
ま、そんなことで。
わたしも同意見です。
たぶんはじまりは、コーチングとか、ビジネス関係の本で、
自己の弱点や危機を、プラスとか、リソースと考えてみましょう、てな話だったと思うのだけれどね。。。
>半分も残ってるんだから贅沢言わずに”一生”我慢してろ」みたいに。コップ満杯が好きならそれを求めても全然OKでしょうに。
そう!
文句言うな、高望みするな、の代わりに使われてる風があるのですよね。
わたしもコップ満杯を望む自分が好きです。
シゲさんとは、他の場面でも、とらえ方違うなあとよく感じます。
シゲさんのほうが、一般的なAC克服本に忠実なんでしょうね。
シゲさんの上げたのは、「さきざき悪いことが起きると考えないようにしよう」という話ですね。
コップのたとえとは、若干違うように思います。
コップの水の量は、「現在の客観値」なわけです。
それに満足しろ、満足する水準を下げろ、という文脈で使われる。
それが嫌だなと私は思います。
いいことがおこるように、というのは、「先」の話なので、
このコップのたとえとは、だいぶちがいますよ。
ぼくもどん太さんのご意見には、いつも新鮮な驚きがありまして、モノの見方が深まる感覚があります。
「あー、なるほどー、そういう視点もあるか。」という感じですね。
「現在の客観値」という意味では、このコップ半分の水の話をしていると、「そんなもん、不満なら蛇口まで行って水入れたらええがな。わっはっは。」という、あっけらかんとした反応をされる方がいて、たぶんそれが一番健全なんやろなぁとは思いますが、それはそれで、ちょっとデリカシーがないような気にもなるんですよねぇ。
まぁ、色々で良いのでしょう、きっと。
たぶんね。。。
「売り上げが前期比半減!どうしよう」
みたいなのが、元の話なんだと思うんですよ。
90年代に使われてたのは、そんな場面だったような気が。
いちばんいいのは、売り上げを上げること、なんですわねそうすると。
となると、「全部入ってるコップがいい」という前提が、そこにはある。
だから、コップ全部満たそう、と動くわけですから。
だとなると、limeiさんや、私の言うように、
「全部入ってるコップを望んで何が悪いのよ」
というのが、健全な感覚、とシゲさんもいってる、ということですね。
それを「半分で満足しましょう」と不満を抱えた相手を説得する(黙り込ます)のに使うようになっちゃってる、というのが、日記のテーマ、なんですよ。