私の嫌いな通俗スピリチュアル。。。
2009年2月10日 日常 コメント (13)に関するけど、タンジェントのお話しとして。
先日、母が我が家に来て、タバコの染みた体臭の残り香のせいで、
その後8時間に渡って私が吐き気と胃痛で苦しむ、と言う事態がありまして。。。
それに関する、なんだかインド系の?スピリチュアルにはまった方が
「身内の悪癖に苦しまされる。。。辛いですね。
でもどん太さんを生んでくださったお母様に感謝します 」
とのお言葉。
それに対する私の返事。
------
ありがとうございます。
私は受動喫煙者以前にACOD(機能不全の家庭で育ったAC)なので、身内のというか、原家族の悪癖は、まあこんなもんじゃないので、
タバコくらいは軽いモノです♪
あの女性に感謝する必要は、あんまりないですよ♪
まして他人のあなたが。
彼女から生まれなければ、ひっきょう、誰かから生まれていたでしょう。
同じような業をかかえた父母の元から。
それが私の業でしょうから。
それに感謝は、「なにかをした」よりも、「よき感情を向けてくれた」ところに発するモノだなあと言うのを私は経験で感じています。
「産んで、食べさせて、着せた」だけの母親が統合失調症をつくった、
というのを、精神科の医師の言葉で読んだことがありますが、
わたしも、ほっときゃ統合失調症だったでしょう。
それを考えると、あの激越は反応は、無意識下の彼女への嫌悪がブーストしてたかも知れませんね。
こういうことを書くと、無知な医師が、やはりCSは精神疾患、とか馬鹿なことをこきだしそうであれですが、認知が症状を悪化も改善もするのは、癌の治療現場なんかじゃ、周知の事実です。
なにもしてくれなくても、共感や同情を示してくれた。
そういう方たち(ここにいてくださる方たち)のほうに、もっとずっと感謝しないとね♪
あなたもしてくださるなら、そっちをお願い♪
----------------------------
以下は個人的な憤懣。
この人に限らないのだが、暗に感謝を強要するってどうよ。
信仰というか、スピリチュアルな救いを求める人が特に、
無理な感謝を自分に強いて、人にも強要する。
いつも思うのだけれど、こうやって感謝を軽々しく勧める人間達は、どうしてそんなに感謝が軽々しくできるんだ?
軽々しくはないのかもしれんが、私より「軽く」できるのは間違いないな。
その差はたぶん、やられたことの差なんだろうけど。
これを埋める術は彼らは持たない。
だけでなく、差に気がつかない。
さらに。
軽く感謝を「できている」から人にも「勧める」人が
ひとたびストレス状況におかれたとき、まともな大人らしい対応が取れる人を、まだ見たことがない。
たいてい、「切れる」とかで終わる。
こんかい書いてきた彼は例外的に人間性の破綻をさして見せない
人なのだけど、多くの「感謝強要」型、あるいは
「ポジティブシンキング他人に強要」型の人間ほど、
人間性の著しい欠損や、親族間の深刻な葛藤を抱えてそこから離れられずにいる。
うーん。。。どだい無理なんじゃないの?
感謝も、ポジティブな認知も、「自然にできたとき」にしか、
本来の用をなさないんじゃないの?
君らがやってるのはご苦労だが、実は君自身の幸福の増進に、
役に立ってないんじゃないの?
本当に苦痛から去りたかったら、もはや感謝も、当然恨みもせず、ただ離れてしまえばよいと、わしゃ思う。
恨みの残る相手を感謝しようとするのは、自分いじめそのものでしょう。
感謝は、幸福な人しかできない。
特権のような感情なんですよ。
まずは幸福になりなさい。
そう勧める方が、なんぼも効力がある。
先日、母が我が家に来て、タバコの染みた体臭の残り香のせいで、
その後8時間に渡って私が吐き気と胃痛で苦しむ、と言う事態がありまして。。。
それに関する、なんだかインド系の?スピリチュアルにはまった方が
「身内の悪癖に苦しまされる。。。辛いですね。
でもどん太さんを生んでくださったお母様に感謝します 」
とのお言葉。
それに対する私の返事。
------
ありがとうございます。
私は受動喫煙者以前にACOD(機能不全の家庭で育ったAC)なので、身内のというか、原家族の悪癖は、まあこんなもんじゃないので、
タバコくらいは軽いモノです♪
あの女性に感謝する必要は、あんまりないですよ♪
まして他人のあなたが。
彼女から生まれなければ、ひっきょう、誰かから生まれていたでしょう。
同じような業をかかえた父母の元から。
それが私の業でしょうから。
それに感謝は、「なにかをした」よりも、「よき感情を向けてくれた」ところに発するモノだなあと言うのを私は経験で感じています。
「産んで、食べさせて、着せた」だけの母親が統合失調症をつくった、
というのを、精神科の医師の言葉で読んだことがありますが、
わたしも、ほっときゃ統合失調症だったでしょう。
それを考えると、あの激越は反応は、無意識下の彼女への嫌悪がブーストしてたかも知れませんね。
こういうことを書くと、無知な医師が、やはりCSは精神疾患、とか馬鹿なことをこきだしそうであれですが、認知が症状を悪化も改善もするのは、癌の治療現場なんかじゃ、周知の事実です。
なにもしてくれなくても、共感や同情を示してくれた。
そういう方たち(ここにいてくださる方たち)のほうに、もっとずっと感謝しないとね♪
あなたもしてくださるなら、そっちをお願い♪
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以下は個人的な憤懣。
この人に限らないのだが、暗に感謝を強要するってどうよ。
信仰というか、スピリチュアルな救いを求める人が特に、
無理な感謝を自分に強いて、人にも強要する。
いつも思うのだけれど、こうやって感謝を軽々しく勧める人間達は、どうしてそんなに感謝が軽々しくできるんだ?
軽々しくはないのかもしれんが、私より「軽く」できるのは間違いないな。
その差はたぶん、やられたことの差なんだろうけど。
これを埋める術は彼らは持たない。
だけでなく、差に気がつかない。
さらに。
軽く感謝を「できている」から人にも「勧める」人が
ひとたびストレス状況におかれたとき、まともな大人らしい対応が取れる人を、まだ見たことがない。
たいてい、「切れる」とかで終わる。
こんかい書いてきた彼は例外的に人間性の破綻をさして見せない
人なのだけど、多くの「感謝強要」型、あるいは
「ポジティブシンキング他人に強要」型の人間ほど、
人間性の著しい欠損や、親族間の深刻な葛藤を抱えてそこから離れられずにいる。
うーん。。。どだい無理なんじゃないの?
感謝も、ポジティブな認知も、「自然にできたとき」にしか、
本来の用をなさないんじゃないの?
君らがやってるのはご苦労だが、実は君自身の幸福の増進に、
役に立ってないんじゃないの?
本当に苦痛から去りたかったら、もはや感謝も、当然恨みもせず、ただ離れてしまえばよいと、わしゃ思う。
恨みの残る相手を感謝しようとするのは、自分いじめそのものでしょう。
感謝は、幸福な人しかできない。
特権のような感情なんですよ。
まずは幸福になりなさい。
そう勧める方が、なんぼも効力がある。
コメント
やっぱり意識してやらないとできない事なんじゃないでしょうか?
いや、最近わかってきたんですけど、どうもやっぱり人間って「悪いこと」の方に意識が行くようにできてるらしいんですよ。
たとえば、丸々一個のリンゴと、かじられたリンゴがあったら、ちゃんとしたリンゴは丸々一個の方なのに、視線はどうしてもかじられたリンゴに行ってしまって誰がかじったんだろう? とか考えてしまう。
こういう事は「異変」に対する敏感性で、本能として必要な事なんですよね。火事になったら焦げた匂いで飛び起きるとか。
ようするに「不幸」に対して敏感なのは本能なわけです。
でも、かじった方のリンゴばっかり見て、それを選び取ってしまっては意味ないわけですよ。丸々一個あるリンゴを取らないといけない。
だから、異変を感知してる感覚を、いったんクリアする作業が「感謝」なんだと思います。
ああ、ありがたい、とまず口に出して「ありがたい事って何が?」と自分に問う。すると、「あ、何もかじったリンゴを手に取らなくても、まるまる一個のリンゴがここにあるじゃんか」と気付ける。(というか「異変察知モード」から抜け出せるって事ですね。)
あるいは、かじったリンゴを手にした後でも、「ああ、ありがたい」とつぶやいてから観察すると、「かじってない部分」にちゃんと目が行く。かじられてないところはちゃんと食べられる。ああ、ありがたい。ってなるわけですよ。
でも、「異変察知モード」のままだと、かじったリンゴに手を出してしまって、しかも、かじられたところをじっと見て、「ああ、ここから腐っていくのだ」とながめてるだけに終わるとか、「すでにかじられてるから、もうこのリンゴはダメだ。危険だ。」と言って捨ててしまったりする。何をやっているやら(笑)。
そういう悪循環を断ち切るノウハウとして「感謝する」って言うのがあるのかなと、僕は最近考えております。とりあえず、形からでも「感謝する」から入る。とりあえず「ありがとう」と言う。そうやって、とりあえず異変察知モードから抜け出すって事ですね。そのためのスイッチチェンジ手法だと。僕はそんな風に定義づけをしてみております。
だから、テキトーなスピリチュアル系の人だと、話の脈絡関係なしに「感謝しなさい」って言ってしまうんだろうなぁと。とりあえずスイッチの入れ替えをするって事が大事なので、すぐ「感謝」だけを強要してしまうと。そういう事ではないか?と思います。
でもまぁ、「恨みの残る相手を感謝する」っていうのは、さすがに難しいですよね。できるのなら、苦労しないっちゅうの。
でもまぁ、たぶん、それも「できる」としておいた方が、幸せは幸せなんだと思いますよ。
いまはできないけども、まぁ、いずれできるさ。くらいに考えておくのが良いのではないでしょうか。別にいますぐ許したり、ましてや感謝なんかする必要はないでしょうけども。
まぁ、いずれは、自分も成長して、そう言うことにも感謝出来るようになるに違いない。で、それは多分、そんなに難しいことでもないんだろうなぁ、ありがたいことだねぇ、くらいに考えておく。
まぁ、いまはできないですけども。
そのくらいに思っておくのが、自分の心のバランスとしても、良いのではないでしょうか。
最近は、「すべては簡単である。」というのが、異変察知モードから抜け出すキーワードになりつつある私ではあります。
はい。
考え方。
感謝は、自然に涌かないと、感謝にならないです。
すくなくともわたしは。
というより、自然な感情のうらづけのない感謝は、
そりゃ、無意味でしょう。。。
自分の人格を高めることで、「自然な感謝の気持ちが涌くようになる」
といいたいんですね。きっと。
そこは同意ですよ。
どう言えばわかりやすいか考えてましたが、やっと思いついた。
「感謝はテクニックとして捉えた方が効果的ですよ」って事でした。
人格を高めるとかではなく、とにかく「ありがとう」と口に出す。
そうすると「自然」に感謝すべき事を探し出すようになる。
そういう、かなり強力なテクニックだ、という話です。
「ありがたいなぁ」とか「ありがとう」という言葉は、つい、リンゴの囓った跡に注目してしまう自分の心を、残ったリンゴ本体の方に注意点を変更させる、魔法の言葉だ、ということです。
どうも、昔の人は、そういう事を分っていて「何事も感謝だよ」と言い続けてきたのではないか? と最近は思います。
このあたり、かなりNLPとかの心理コントロールテクニックに共通する部分があるなぁと思う。
だから自然な感情の裏付けがなくても、とりあえず「ありがとう」と言っておけ、という事になるんではないか? と思うのです。
まぁ、それをいきなり、一番憎んでる人に対してやるのは抵抗が大きいですけど、まぁ身近なものや事に対してならできなくはないですし、とりあえず「ありがとう」と言い続けるという事ですわ。人格とか自然な感情とかはちょっと横に置いといて。
なので、そのスピリチュアル系にはまった人が言いたかったのも、「内実に感謝の実感はなくても、とりあえず感謝するようにしましょう」みたいな事だったんだと思いますよ。感謝というのは、多分テクニックですから。基本的には。
ま、そういう事がいいたかった、という話です。
私はね。。
感謝は、自然に涌くモノはいいけれど、するのを目指すべきモノではないと思ってるんですよ。
「感謝」と「赦し」は、被害者にむけられた恫喝というか、
セカンドレイプだと。
どうも、場面がごっちゃになってるみたいですね。
私も、感謝の念など無くても、あるいはさほどつよくなくても、
感謝の言葉を吐きますよ。
これは、コミュニケーションスキル、あるいは、世間的な礼儀や礼譲として。
あるいは、功利的な理由から。
そういうのとちがって、自分の苦悩をやわらげるために、という目的で、
ACである人間に、「加害者に感謝せよ」とか「加害者を許せ」という言辞、ありますよね。
あれは、患者を害するだけだと思ってきました。
あれのしばりからのがれられずに血を吐く思いをする患者さんが、このダイアリノートにも、ミクシィにもいらっしゃる。
大変な心理的抵抗をかかえて、苦しみを増しているだけ。
赦す価値のない人間を赦せとは、人間性をゆがめるものだよ。
それは、本来ののびのびした人間性を獲得する道からは、
どんどん離れて不幸になるよ、ということです。
そういうお話しとしてです。
そんじょそこらの感謝の話ではないの。
その辺の「トピの文脈に沿う」というのを、お願いしたいですわ。
自分の話したいことをはなすために、一般化した話をしてしまうと、どんどん、「会話」は成り立たなくなる。
まえの、キリスト教の説きもソウでしたけど。。。。
そりゃ、「加害者」と思ってる人を許したり、ましてや感謝するのはさすがにできませんわね。
でも、そういう時に「感謝せよ」という単なるテクニックに対して恫喝とかセカンドレイプと感じる、あるいは「大変な心理的抵抗」が出るというのは、ちょっと方向がずれてると思いますよ。単なるテクニックなんだから、そこに怒ってもしょうがないですよって事です。テクニックが適切ではなかった、というだけですから。
その恫喝だ、と感じる原因に関しては、その「加害者」にあるんじゃなくて、明確に「許さない!」と思っている自分にあるんです。つまり自分が加害者にまでなってしまってるって事なんです。それはあんまりよろしくないなぁって事ですね。
怒ったりムカついたりする事自体が自分を傷つけてる行為なんですよ。だから、上手に怒りを鎮められるようにした方が得が大きいってことで、テクニックとして「感謝すればいい」と言う言い方が出てくるわけです。でもまぁ適切でないテクニックというのは逆に苦痛ではありますよね。
僕が知ってる範囲で、「適切なテクニックだなぁ」と思ったのは、「そこに置く」という奴でした。許せないほど憎い人はいてる。それはしょうがない。しかし憎しみをそのままにしておくと、自分自身まで傷つけてしまう。ではどうすれば良いか? もっとも良いのは、その憎しみを感じる人にまで感謝を感じるという事なんでしょうが、それは無理。
であるなら、憎しみをいったんそこに「置け」ばいい、というのです。これは良いテクニックだなと思いました。石井裕之という心理カウンセラーというか、そういう人が言ってたんですけどね。
山口百恵が歌手を引退するときに、引退のステージで、舞台にマイクを置いて去っていったんですが、あれがそれだ、と言っておられましたね。「ああ、なるほどなぁ、うまいこと言うなぁ」と思いました。
怒りや憎しみをそこに置いて、そっと去る。それが良いと。
感謝はおろか、許す事すらできないのだから、まずはそれだろうと。
で、これも結局はテクニックなんですけどね。感謝もテクニック。「そこに置く」のもテクニック。まぁ、最適なテクニックを使えば良い、という事です。
ともあれ、怒りや憎しみは自分を痛めつけて、集中力を下げたり、前向きな行動を阻害したりします。たとえば学習効果とかをそぎ落としたりとかね。なので注意が必要だと思いますよ。お薬を飲むみたいに、「適切なテクニック」を使うというのが、けっこう便利だと思います。
まぁ、あれですね、血を吹くほどに、いまだ怒りが湧いてる最中だと、「感謝」という処方は副作用が強すぎるってことでしょうね。
ちなみに僕は最近、やっと父親に感謝できるようになってきました。
でも感謝と言っても、ちょっとひねくれていて、「誰の目にもわかりやすい、どうしようもないギャンブル中毒症の父親で助かったなぁ。」という感謝ですね。「アダルトチルドレンの子供達」という本がありまして、たとえば依存症者の孫がいたとすると、自分の父親が「隠れ機能不全者」なので、自分がACであるという自覚を持ちにくいんですよね。そういう環境になると不幸の連鎖から抜け出すのがかなり困難になるんです。「うちの父や母は別に特に依存症者じゃなぁったしなぁ」と。
でも、僕の場合は、はっきりと「ギャンブル中毒症の父だった」と分かってますから、特定がしやすかったわけです。そこは実にありがたかったなぁと。単純な父親で助かった! と思っております。まぁ、やっといまにしてそう思えるようになってきた、という事ですけどね。
ともあれ、「そこに置く」ってのは、なかなか良いですよ。おすすめです。
私がおすすめなのは、「そこから離れる」です。
憎むのも、感謝を自らに強いるのも、そこに執着してるから。
シゲさんの「そこにおく」も、期せずして同じ解答にいたった、ということかもしれませんね。
といっても私のは、仏教からの拝借ですから、オリジナルではありませんが。
「血を吐くほどに」苦しんで赦そうともがいてる人には、
私は、
「離れようよ」といいたいです。
赦さなくていい。
感謝も、必要ないです。
血縁の執から、離れましょう、と。
シゲさんが、弟さん?
かなにかに、「その考え、ちがうじゃん!」といいたい、
とストラグルしてたときも、
わたしは、そこから離れましょう、っていいましたよね。
もうだいぶ前だけど。
あれと同じです。
血縁の執から、離れる。
とくに、機能不全の血縁の人間関係からは。
まあそれは置いといて、私も所謂スピリチュアルと言うヤツは嫌いです。なんだかんだありもしない他人のことを引っ張ってきて自分の意見を押し付けるのがね。私なら、返答など絶対にしないでしょう。
どーなんでしょうねえ。。。
インド系。。。
だれだったか、スピリチュアルカウンセリングを
>相談者の悩みを霊的なものとして特定してあげた上で、それを解消する、というスキームを実施
といってた方が居て、その通りだわと思ったです。
スピリチュアルカウンセリングは、「カウンセリング」なんですよね。
スピリットの実体とは無関係。
それはともかく、
人に「したほうがいいよ」「おすすめだよ」「しなさいよ」
と勧める、あるいは強要する間は、その人はそれをまだ体得していないのだろうな、と推測することにしてます。
体得すると、その個別な経験の有無次第で、それができるかできないかが決まる、というところが、ほんとに「感得」できてくるから。
人の状況への配慮無しに勧める時点で、野狐禅のたぐいだなと。
感謝というのは自分によくしてくれた人・親切にしてくれた人に対してするから意味がある訳で、自分に危害を加えた人に感謝しろと言われたら感謝の意味そのものがなくなるのではないでしょうか。
私は母親が父親に暴力を振るわれて何度も入院するのを見て育ち、子供の時虐待を受けて他県の山に捨てられた経験がありますが、父親に感謝しろと他人に言われたら、大きなお世話だと言うと思います。
私は18歳で親元を離れましたから過去の記憶で日常生活が乱されるということはありませんが、それでも子供の時受けた虐待を感謝しろと言われたら、心の底からむかつくと思います。
感謝の気持ちが足りない・感謝することで何かが変わる、と言われたところで、何の助けにもならないのです。テクニックだろうが何だろうが、その人の助けにならないものは意味がないでしょう。人間関係において、頭ではなく心で考えること、想像力を使ってコミュニケーションをすることは大切だと思います。
私もとりあえず離れる、という方法には賛成です。いつまでも過去をひきずって生きていてもいいことはないですから。
おっしゃるとおりだと思います。
良きこと(感情、行為)をくれたひとに感じるのが感謝ですよね。
>父親に感謝しろと他人に言われたら、大きなお世話だと言うと思います。
おそろしいことに、これをいうカウンセラや心理療法の一派はけっこういます。
わたしはこれはセカンドレイプに近いと思ってます。
そんなことをいわれたら、心の底からむかつくのが、健全な心ですわ♪
それよりは、害のある人間関係から離れる方が、よっぽど自分のためになりますよね。
害だらけの人間関係でありながら、感謝するにせよなんにせよ、
物理的にも心理的にも離れない、というのは、
それはそれで、やはり病んだ関係で育った故の、後遺症なんだと思います。
離れる。これがいちばんですね♪
次いこ次、ですね。