だそうで。。

はげしく同意。

ついでに彼の言ってる内容、実に現実に即している。
そうそう。
だいたいシケプリが出回るのが分かり切ってるのに、
誰が時間かけてノートなんか取るか、ってことなのよね。

そんな時間かけてたら、全科目の勉強なんか、終わるわけがない。

それにしても。。。
今の学生さんは、ほんとに勉強してるんですね。
私の頃は、はい、バブル期だったもんで。。。遊びきりました。

☆あと、今の学生さんは電磁的記録でシケぷりを作るんですね。
時の流れって、(さだまさし「木根川橋」へ永遠回帰)。。。

☆で、びっくりしたのだけど、彼の「ノート」
私と同じメッシュなのね。
私は5ミリますのライフのモノを使ってるけど。。。
でもこれはノートではなくて、授業のききとり。
これを丁寧になおしたり、じっくりみなおしたりは、しないなあ。。



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http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0902/03/news016.html
現役東大生・森田徹の今週も“かしこいフリ”:『東大合格生のノートはかならず美しい』(東大ノート本)という本が15万部も売れているらしい。活字離れに金融危機が重なった出版不況の中、この数字はスゴイと言っていいだろう。

【拡大画像や他のノートの画像を含む記事】

 東大に合格する生徒のノートが美しいと聞いて「そんなバカな!」と思った筆者は、自分のノートを改めて確認した。しかし何度見ても、汚いのだ。学生証には「東京大学教養学部」と書いてあり、確かに東大生なのだが、それでもやはりノートは汚いのだ。

 もちろん、筆者は中学生のときから投資にかぶれている資本主義の手先だから、印象操作だろうが偏向報道だろうが「数字を取ったものが勝ちだ」と考える人種である。だから本が売れて、印税で1500万円ほど稼いだ方が“勝ち”だと思っている。はっきり言って、あやかりたい。

 そこで今回は東大ノート本を批判するだけではなく、「効率的な勉強法とは何か?」といったテーマについて考えてみた。

●「優等生」の書く本の内容

 まずは東大ノート本の“揚げ足”をとることにしても、本の内容を確認しないのはやはりマズい。しかし、わざわざ買うのも面倒なので、立ち読みですますか……と考えながら“ググって”みると、文藝春秋が特設サイトを立ち上げていた。

 そこで、本稿ではこのWebサイトに書いてあることを東大ノート本と同一のものとして扱う。万が一、これが文藝春秋の図った壮大な罠だとしても、筆者は責任を負わない。

 東大ノート本のWebサイトは、法則・事例・実践の3部構成になっている。重要なのは「法則」だろうから、以下に要約する。(1)文頭をそろえる、(2)不要なものはコピーする、(3)余白をとる、(4)インデックスを作る、(5)重要なところは改ページ、(6)自分のフォーマットを作る、(7)丁寧に書く――といった具合だ。

 「キレイなノートを作る」という前提に立てば、なかなか良いアイデアだ。その上、Webサイト上でインタビューに答える東大生の女の子は実にかわいらしい。優等生然としていて、さらに見せるノートも美しい。筆者も見習った方がいいかもしれない。

 ただ、はしごを外すような展開で申し訳ないが、東大ノート本の著者である太田あや氏のかき集めた200冊の東大生のノートはすべて美しかったのかもしれないが、あえて断言しよう。

 そもそも、東大生はあまりノートを取らないのだ。

●ノートに情熱をかける「勉強ベタ」と「神」

 なぜ「東大生はあまりノートを取らない」と言い切れるのか。結論から先に言ってしまえば、本当に東大生がみんなノートを取るなり、まとめ直すなりの習慣が付いていて、それが美しければ、シケ対(試験対策委員会)のような“伝統的官僚機構”はニーズがないので存続し得ない。簡単に言ってしまえば、授業の完璧なレジュメ「シケプリ」(試験対策プリント)を学生が分担して作る相互互助システムだ。

 さらに言えば、ノートを取るというのはインプットではなくアウトプットの過程なのだから、そんな作業に情熱を傾けるのは、以下に挙げる2タイプの数少ない学生だけだろう。

 まず、授業に出ただけで勉強した気になる勉強下手な学生である。もちろん、1から復習しなおすので恐ろしく非効率だが、この手の輩で東大に入るような人々はすべからく異常な勉強時間なので、確かに成績は悪くない。

 次に、聞いた瞬間にすべてを理解してしまって、やることがないのでノートを作るという純粋な趣味人である。これら趣味人は、級友の間では「神」とあがめられ、そのシケプリは何年にもわたって「神シケプリ」として出回るというケースもある。

 さすが東大生の仕事だけあって、教科書よりも教科書に近いものができあがっていたりすることもある。いずれにせよ、筆者のような凡人が真似をするべき所業ではない(もちろん、シケ対は電子化された完璧に美しい“シケプリ(試験対策プリント)”を作成する。だから、自分に割り振られた科目のノートだけ見れば、確かに「みんな美しい」)。

●ノートが集まらない!

 とはいえ、推測だけでモノを書くのはいただけない。実際のところ、これをきちんと反証しようと東大の駒場キャンパスでシケ対以外のノートを集めようと努力したのだが、試験期間中ということで、あまりにノートの数がそろわない。みんな自分の書いたノートを携帯していないのだ。

 “敵”が200も集めたというのに、1クラス分も集められないとはなんとも情けない。仕方がないので調査内容を説明し、意見を求めると「シケプリがあるのに、ノートなんて取るわけないじゃん」、「その場で覚えるために板書がある授業は写すけど、汚いから自分のは見直さないよ」、「比較的ちゃんと書いてる。だけど絶対に漏れがあるから、シケプリがないと話にならない」、「自分で分かればいいんだから、別にキレイに書かなくてもいいんじゃない?」、「ちゃんと取ってるよ。でも、シケ対ではないのでそんなにキレイではない」「おい、森田。この授業、教科書からしか出ないぞ」などなど。

 このほか「そろそろ試験だからシケプリ集めに久々に学校に来た」といった意見もあった。

 これだけの意見では話にならないので、用事がてら本郷キャンパスに行った。そして運良く数人の学生に話を聞くと、ある法学部の友人がいいことを教えてくれた。

 「大体、専門(課程)でレジュメを用意しない先生だと、速すぎてノートを取りながら授業なんて聞いてられないから、ボイスレコーダーを使っている。だけど、聞き直さないことも多いが……」

●取材から見えてきた「効率的勉強法」

 人の勉強法はさまざまだ。もちろん、ノート作りが楽しく、シケプリを作るうちに復習が済んでしまったという学生たちも筆者は知っている。その一方でシケプリ作りに精を出したのにも関わらず、「良」や「可」しか取れない学生も1人や2人ではない。

 シケプリを作った本人よりも、そのシケプリを読んだだけで授業には全く出ていない学生の方が成績が良かったり、シケ対の担当科目よりもほかの科目の方が成績が良いという東大生もいる。

 では、東大生はどうやって勉強をしているのだろうか。友人への聞き取り調査を進めていくうちに、たくさんの勉強法に出会い、驚嘆したのだ。

 勉強法をざっくり分類して、終わりにしよう。以下で述べるのは、主に復習方法である。

聞けば・読めば分かる派

 この型に分類される彼らは、正真正銘の「天才」だ。しかし、東大ともなると、これは1人や2人ではない。だから、お手本にはならないだろう。

 筆者個人のことをいえば、好きなことだと意識して勉強したわけでもないのに、自分でも驚くほど頭に入っていることもあるが、興味のない大抵のことは何回繰り返しても忘れる。好きこそ物の上手なれ、とはよく言ったものだ。

 実際、勉強だけに限らず、その内容を好きになって驚くほど効率が上がったという人もいるだろう。筆者の場合、高校生のときにはイタリアの首都も分からず地理が大の苦手だった。しかし欧州マーケットが「次の火種となるのではないか」と噂される昨今においては、ほぼ完璧に欧州の国や主要都市のほか、主要企業などを覚えている。とはいえ、これは勉強法ではないだろう。

繰り返し聞く派

 先ほどのボイスレコーダーの件もあったが、一度録音されたものを1.5倍速や2倍速で繰り返し聞くというのはよく聞く勉強法だ。取材中、法学部を主席卒業したある学生も、この方法を取っていたという話を聞いた。

 ロースクールや公認会計士などの専門学校に通っている学生も多いが、こうした学校の多くのDVDデッキは1.5倍速に設定されている。

色ペンチェック派

 本を読むとき鉛筆で線を引いていくという読書法。色ペンでテキストやレジュメを塗っていくこの方法は、よく目にする。

 もちろん、場合によっては下敷きで塗った部分を隠す。穴埋め型のテスト形式だと必須の勉強法である。

らくがき帳派

 筆者の勉強法もこれに分類される。きちんとした教科書なりシケプリなりを調達してきて、読みながら重要そうなキーワードや概念だけイメージに残りやすいように書き出している。

 筆者自身は無印良品の「らくがき帳」を愛用していて、最初にアイティメディアに行ったときには笑われたものだ。しかし、すぐ捨てられるような裏紙を携帯している学生を見ることが多いことから、一定数いるのではないかと推測される。

議論派・問題を解く派

 友人と授業内容について話をしたり、問題を解いて間違えたところを見直すという方法の反復で身につけてしまうという方法である。問題を解いていくうちに勝手に頭に入るというのは、取材した限りでは一番よく聞いた勉強法である。当たり前すぎて、わざわざ勉強法と書くのも恥ずかしいところだ。

 個人的には議論は好きなのだが、自分自身も友人もテキストやレジュメを一読もしてないことが多いので、テスト前にならないと機能しないことが多い。

ノート作り直し派

 少々コケにしてきた感はあるが、ノートを作り直して復習する学生もいる。とはいえ、Webサイトで例示されているような色ペンまで使った鮮やかなものやインデックスなどは見たことがない。ほとんどの学生のノートは、鉛筆かボールペンで黒々と書かれ、ときおり赤ペンや青ペンが使われる程度である。ノート作りが作業になってしまったらお終いだろう。

 自分の頭に入れるのが重要なのだから、自分が読めればいい。美しい必要など、どこにもないのだ。

●特別な勉強法なんてない

 東大生のノートが美しいかどうかの以前に、授業に出る派・出ない派にも分かれるなど、細分化していけばキリがない。もちろん、これは別に合格してしまったから、腑(ふ)抜けになったというわけではない。大手予備校では有名な話だが、予備校には来るが授業には出ず、ひたすら自習室に通うというのはよくある話である。受験生にとって、仲間がいるという環境は重要だから、こういった予備校の使い方も一概に不合理だとはいえない。

 これも「自分流」の勉強法である。テストで酷い点数を取ったり受験に落ちれば自己責任なのだから、授業に出ることを強制される筋合いはない。

 読者の中には「目新しくもなんともないじゃないか」と思われている方もいるだろう。当たり前である。別に東大生だからと言って特別な勉強法があるはずもなく、彼らもまた地道に反復を行いながら、日々学んでいるのである。

●最後に、きちんと「言い訳」

 最後に東大生の名誉のために言っておくと、授業に出なかろうが、シケプリがあろうが、ゼミの選考や就職活動などにおいて学校の成績(試験の点数)がモノを言ってくる。こうした成績による“競争原理”が働いているため、実は多くの東大生は驚くほど勉強しているのだ。

 筆者は慶應義塾大学経済学部で1年間仮面浪人をし、フル単(1年生のときに必要な単位をすべて修得した)までして退学し、東大に再入学した不名誉な経歴を持つ。その個人的な経験から言っても、東大の方がはるかに単位を取るのが難しい(これも言い訳をしておくと、今でも慶應は大好きで、当時のクラスメイトとはいまだに仲が良い。学生生活を楽しむなら、絶対に慶應の方がいいと思う)。

 東大ノート本の話に戻すと、正しいタイトルはこうだろう。

 『東大生のノートの中にはキレイなものもある ~誰も自分のノートを使わない不思議~』

 さて、美しいとは言いがたいノートを嫌々ながらも公開することに同意してくれた友人諸君に、深い感謝の意を述べて筆をおくことにしよう。筆者は良い友人に恵まれているようである。



コメント

シゲ
2009年2月3日23:07

ぶはははは。
この話を読んで、やっぱり東大生がとったノートは美しいのだな、というのが、圧倒的な傍証として感じ取れました。
だいたいからして、東大生になるような人は、世間からかなりずれていて、この項のタイトルからして矛盾してるんですよねー。「東大生はそもそもノートを取らない」と言うタイトルなのに、この人はちゃんとノートを取ってるんですもの。「汚い」と言いつつ、それでもやっぱり取ってる。

「やっぱり取ってるんやんか!」

と問いつめたい。小一時間、タイトルとの矛盾をネチネチと追求したい。

そもそも、三流学生はノートを取らない時は、「一文字も書かない」のですよ。
この、絶対的、圧倒的、一般的常識というものが、東大生には通用しないのだなぁと、あらためてニヤニヤと笑ってしまう。なんておかしな人たちなのだろう。「汚いノートはつけてたけど、そもそもノートは取らない」なんて、矛盾のかたまりです。(笑)
面白いよなぁ、東大生は。

世間一般で「ノートを取らない」と言ったら、一文字でも書いた段階で条件から外れるのだ、というあたりがわかってないわけですね。

だから多分、東大生の間では、
●ノートというものは、復習のために必要なものである。
●であるなら、後から読み直せるくらいの美しさがなければ意味がない。
●であるなら、誰かがきれいにまとめたノートを見ればいい(参考書を含む)
というあたりが「常識」になってるんでしょう。

このあたりがすでに、一般的常識とかなりズレてます。
一般的には「勉強したくない」がベースでして、そのしたくないにあわせてノートなんか取らないんですよ。板書も基本的に写さないし、当然読み返す必要性自体に思いが至っていないわけですから。

東大生で、「ノートを取る派」の人は、だから「どうせ取るならきれいに書かなきゃ意味ないじゃん」という事でノートをきれいに取ってるんだと思いますよ。数が問題なのではなくて、ようは質が問題なわけですよ。
「ノート取ってない人もいてるでしょうが、取ってる人はきれいだろうな」って事で、この太田あやという人はそこを確認してみたら、「ノートを取ってました」という人のノートは、みんなきれいだったので驚いた、という事でしょう。

で、笑うのは、この森田さんと言う方ですが、「汚いノート」はとってたわけですよ。でもそれを「ノートを取ってた」とは意識してないわけです。なぜなら、それが復習の役にはあまり立たない、つまりノートを取る意味があんまりないと分ってたからですね。だから「汚いらくがき程度はしてたけど、ノートはそもそも取ってなかった」となってるわけです。

ここから導かれるのは「ノート(参考書含む)はきれいでないと役に立たない」という「ノート取りの定義」です。東大生は「ノート」と言った限りは再読して役立つノートでないとノートとして認めていないって事ですよ。つまりは。

でも、世間の三流の学生は「勉強したつもり」で「汚い落書き」くらいしかしてないんですって。それを東大生は「ノート」とは思わないんでしょうけど、世間一般では立派に「ノート」と言うのですよ。そういう意識の違いをまざまざと見せつけられた気がしましたねぇ。
で、そういう不勉強な下々の事が、やっぱりわかってらっしゃらないなぁって事でした。
アホはほんまにアホなんやっちゅう事ですけどねぇ。そこいらがわかってないんやなぁと。
まぁそういう事です。

いや、なかなかに興味深い記事でした。

どん太
2009年2月4日9:16

シゲさん

私も彼も、汚いノートは取ってますね。
でも、見直さないんです。

どうも、ノート取る目的が違うみたい。

手を動かしてるときに、たぶん頭の中に同じモノ、シミュレートしてるんでしょうね。

だから、ほんとのノートは、頭の中にあるんです。。。。

そういういみで、書いてるノートは、ジャイアントロボでしたっけ?少年がいろいろ動いて、ロボってに指示を与える、あの動きに当たる、のかも。

本当の効果を伴うのは、ロボットの動きの方だし、頭の中のノート、なのかもね。

どん太
2009年2月4日9:17

あーだから、頭の中に直接かける人は、ほんとにノート取らない。

そういう人の方が脳機能が高いのがわかってるので「ノート取ってる」というのが、恥に感じるのかも。。。

ノート取らないと、頭に残らないのかよ、自分。。。みたいな。

シゲ
2009年2月6日0:37

「頭の中に直接書ける」というのは、実は僕は、「倫社」だけはそうだったんですよ。
何故か倫社は、ノートも取らず、先生の話を聞きながら教科書を読むだけで、全部頭に入ってしまいました。で、復習もなにも、一切せずに、クラスの平均点が20点とかいうテストで90点でした。

だからこのあたりは、「相性」なんでしょうね。
でも、こんなもんは、全学科には通用しませんからねぇ。
東大みたいに、科目の多い大学受験では、全科目がこれでやれるはずがないと思います。
いや、中にはそれでやれる人もいてたんでしょうけど。

頭に入らないから、あがくようにノートを取る、というか、とにかく「書く」という作業だけは、焦ってやる、というのが「汚いノートでもとりあえずは取る」って意識なんでしょうね。

三流大学にしか行けない人間は、だいたいこの「焦ってでも何かする」という事自体をしない。(笑)
だいたい「焦らないとまずい」という危機感がない。(笑)
で、このあたりの危機感なしに生きてる人が大多数なのだ、という現実を、なぜか東大生の人は見落としてる感じですね。

で、そうやって「焦ってでも取ったノート」というのは、見直したところで整理して書いてないから、役に立たないわけですよ。
それは「焦ってでも書く」という事をやってはじめてわかるわけでしょう。
で、一度見直そうとして、「こりゃわけわからんわ。」と思って、参考書を買ってきて読むとか、あるいは、きれいなノートを入手する方法を考える、とかするんでしょうね。

で、もともと、「書いてまとめるのが好き」なタイプの人は、「読んで復習の役に立つノートにする」という方法を選ぶ。で、だから東大合格生の人からすれば「きれいなノートでなきゃ役に立つわけない」という程度の事は「常識」として存在してるんだろうと思います。

だから、一般人が聞いたら矛盾してるとしか思えない、「ノートは取らないよ。私なんて汚いメモしか書いてなかった。」という言い方になるわけです。
危機感すらないような学生だと、ただ漫然と授業を聞き流してるだけですから、「焦ってメモする」という行為すらしてません。で、アホな学生であればあるほど、メモとキチンとしたノートの違いがわかってないので、「ノートは取らない。私は汚かった。」という言い方が、ものすごい矛盾に聞こえるわけです。

いや、それ、ノート取ってるやん!

という事ですね。
アホから見ると、そういう矛盾にしか見えないわけですよ。

で、たぶん、東大生になるような人で、ノートを中心に勉強するようなタイプの人は、ノートをまとめるという作業を通じて復習の効率を高めるというやり方をするのが当たり前で、だから「東大合格生のノートは必ず美しい」になるんだろうな、という事です。

で、やっぱり、そういうノウハウは、すごく役立つんですよ。
僕はコピーライターで、取材メモを、それこそ、ものすごく汚く書くタイプの人間ですけど、「東大ノート」のノウハウは、いろいろと役に立ちました。

でも、僕の場合は、いくらメモを書いても、あんまり頭の中には入ってくれないですねぇ。
倫社的な内容はバッチリですけど、それ以外は、徹底してメモを読み返さないと思い出せない。
だから、「きれいにメモする技術」は身につけておいた方が得だろうなぁ、とは思いましたです。
はい。

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