久米の仙人@両国シアターカイ
2008年7月4日ミクシつながりで見に行きました。
芝居です。
http://www.theaterx.jp/08/080701.shtml
http://www.theaterx.jp/access.html
土日もあるので、御用とお急ぎのない方はぜひ。
*********
「久米の仙人」みてきました。回向院の隣で。
いま青空文庫とかで出てないかなあと思ったけど、ない。。。。。
しまった。テキストダウンロード、したかった。。。
−−−−−−−−−−−−
お話はとても単純で、吉野川で布をさらしていた娘たちのもとに、
仙人が「おりて」くる、んです。
それだけ。
伝説では、仙人は布をさらす女たちの白い脛(はぎ)にみとれて神通力を失い、「落ちて」くるんですが、この仙人は、ふと娘達の元に降りたくなって、「降りて」くる。
びっくりした村人たちに打擲される仙人さま。
そこへ修行者(修験者の恰好)が来て、
「久米の仙人様であれば、いかなる修業の元に飛行の神通力を身につけられたか、ぜひ知りたい」と身を乗り出す。
そこで久米の仙人がいうには。。。。
秘密の巻物をみたからでもなく、艱難辛苦の修行によるものでもなく、「飛んでみたい」と思ったら、とべた、というのです。
他の人がなぜ飛べぬのか、不思議なくらいだと。
それで、上空から娘達の楽しそうな声と、美しい若い白いナマ足をみて、「悟った」というのです。
台本がないので、かなり解釈でねじまがってるんですが、、、
女達の魅力に参って、女達の元へ行きたい、もっと見たい、という気持ちこそが、真理だったと。これが悟りだと。
「なんのこの破戒坊主が、女に見とれて神通力を失っただけじゃないか」「しかも酒臭い。不飲酒戒まで破ったな、このくそ坊主」と、修行者達はすっかり失望・興ざめして、仙人をののしって帰っていきます。
仙人、意にも介さず。
自分は若い頃は武人で、いくさの人生だった。
のちには竜門寺で修行三昧。
なんと多くの時間を無駄にしてしまった事よ、と。。。
「ああオレは人生あやまったなあ」
って笑いながら嘆いて言うんです。
やっとここにこれた。いまとなってはぜひとも若いムスメさんのどなたかと暮らしたい、と。
うーん、どうやっても実際に見たお芝居のようには伝わらないなあ。。。
わたしはこの仙人の述懐をきいて、もう、うんうんうなづきながら、泣き笑いして見ていたんです。
ああ泣いた。
ああ笑った。
こんなに泣けて笑えたのは久しぶりでした♪
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
泣き笑いを加速させたのは「修行僧甲」です。
この芝居、そうねえ、「夕鶴」みたいなのーんびりした風情のお芝居なんです。
修業僧甲以外。はい、彼以外。
この修験者だけが、仙人をあがめ、その秘密の奥義にぜひともふれたい、と意気込みすごく、それが大時代なせりふと所作で表現されるんです。
声もせりふ回しも、口や舌の動かし方まで、歌舞伎の時代物や能狂言のそれそっくり。
足の裏の運びや床につく手の、腕の筋の使い方、首の後ろの筋肉、その他体のあらゆる筋肉の使い方も、六方ふんでひっこむ弁慶か、というくらい、じつに緊張しはりつめ、大時代なんです。
六方踏んでる弁慶の方がまだのんびりしてるくらいかな。
なにせ全身、金剛力士の筋肉ですから。
対する仙人がひょーひょーたんたんさらさらりと散文調で受け流すので、このギャップが、いかにもなんとも、面白い。
戒を破った破戒者だ、と嘆きに嘆く修行者が、じつになんとも、
こっけいになるんです。
「道を求めるのにどん欲な修行者」
と
「仙人」で。。。。
俗(修行者)と、俗から離れた者(仙人)、で。
しかも、俗の者(修行者)は、俗から汲々として逃げ回る者であって、
俗から離れた者(仙人)は、俗の魅力に参って俗に戻ってきた者、なんで。。。。
なんとも。
ああそうそうこれだこれこれ、と、なにがなんだかわからぬままに、
心の中で快哉を叫びながら、みていました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ああ、書いてもあのたのしさ、自分が感じたよろこびは、書けないなあ。。
まあ、そんなもんですね。
だから実際に見るのが楽しいんだし。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
わたしはじつは歌舞伎調というか、狂言調のふしまわし、実はとっても好きなのです。
私には、音楽に聞こえてくるんです。
それがすきで、歌舞伎を見たり、国立劇場小劇場で人形浄瑠璃がかかると聞けば、ちょぼゆかのそばで、太夫さんのつばきがとぶ場所で、耳そばだてて、見てました。
きけば修行僧、あの所作もせりふまわしも「見よう見まね」なんだとか。
でもね。。。。
あれ、見ただけ、まねただけではできないだろうなあ。ご謙遜だよなあきっと。。。
だって、むかーし、
いまの尾上辰之助が舞台に出始めたとき、「天燈鬼」という芝居で、高い金払ったのに、歌舞伎らしい所作も節回しも全くできてない彼をみて「金返せ〜」な気分になって、以来歌舞伎座に行かなくなった自分を思い出しましたもん。
とにかく、聞けるとは思ってなかったすてきな音楽をきかせてもらった気分でした。
−−−−−−−−−−−
そうそう。。。
修行者甲、じつに喜怒哀楽が激しいんです。
いってみれば、これが、きっと仙人が、「悟った」といってた世界の姿なのかなと。
怒ったり、うれしかったり、悲しんだり、惚れ込んだりが、どっぷりできている世界。
なので、上に「俗」と「俗を離れた者」と書いたのは、じつは対立項じゃ、ないんでしょうね。
芝居です。
http://www.theaterx.jp/08/080701.shtml
http://www.theaterx.jp/access.html
土日もあるので、御用とお急ぎのない方はぜひ。
*********
「久米の仙人」みてきました。回向院の隣で。
いま青空文庫とかで出てないかなあと思ったけど、ない。。。。。
しまった。テキストダウンロード、したかった。。。
−−−−−−−−−−−−
お話はとても単純で、吉野川で布をさらしていた娘たちのもとに、
仙人が「おりて」くる、んです。
それだけ。
伝説では、仙人は布をさらす女たちの白い脛(はぎ)にみとれて神通力を失い、「落ちて」くるんですが、この仙人は、ふと娘達の元に降りたくなって、「降りて」くる。
びっくりした村人たちに打擲される仙人さま。
そこへ修行者(修験者の恰好)が来て、
「久米の仙人様であれば、いかなる修業の元に飛行の神通力を身につけられたか、ぜひ知りたい」と身を乗り出す。
そこで久米の仙人がいうには。。。。
秘密の巻物をみたからでもなく、艱難辛苦の修行によるものでもなく、「飛んでみたい」と思ったら、とべた、というのです。
他の人がなぜ飛べぬのか、不思議なくらいだと。
それで、上空から娘達の楽しそうな声と、美しい若い白いナマ足をみて、「悟った」というのです。
台本がないので、かなり解釈でねじまがってるんですが、、、
女達の魅力に参って、女達の元へ行きたい、もっと見たい、という気持ちこそが、真理だったと。これが悟りだと。
「なんのこの破戒坊主が、女に見とれて神通力を失っただけじゃないか」「しかも酒臭い。不飲酒戒まで破ったな、このくそ坊主」と、修行者達はすっかり失望・興ざめして、仙人をののしって帰っていきます。
仙人、意にも介さず。
自分は若い頃は武人で、いくさの人生だった。
のちには竜門寺で修行三昧。
なんと多くの時間を無駄にしてしまった事よ、と。。。
「ああオレは人生あやまったなあ」
って笑いながら嘆いて言うんです。
やっとここにこれた。いまとなってはぜひとも若いムスメさんのどなたかと暮らしたい、と。
うーん、どうやっても実際に見たお芝居のようには伝わらないなあ。。。
わたしはこの仙人の述懐をきいて、もう、うんうんうなづきながら、泣き笑いして見ていたんです。
ああ泣いた。
ああ笑った。
こんなに泣けて笑えたのは久しぶりでした♪
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泣き笑いを加速させたのは「修行僧甲」です。
この芝居、そうねえ、「夕鶴」みたいなのーんびりした風情のお芝居なんです。
修業僧甲以外。はい、彼以外。
この修験者だけが、仙人をあがめ、その秘密の奥義にぜひともふれたい、と意気込みすごく、それが大時代なせりふと所作で表現されるんです。
声もせりふ回しも、口や舌の動かし方まで、歌舞伎の時代物や能狂言のそれそっくり。
足の裏の運びや床につく手の、腕の筋の使い方、首の後ろの筋肉、その他体のあらゆる筋肉の使い方も、六方ふんでひっこむ弁慶か、というくらい、じつに緊張しはりつめ、大時代なんです。
六方踏んでる弁慶の方がまだのんびりしてるくらいかな。
なにせ全身、金剛力士の筋肉ですから。
対する仙人がひょーひょーたんたんさらさらりと散文調で受け流すので、このギャップが、いかにもなんとも、面白い。
戒を破った破戒者だ、と嘆きに嘆く修行者が、じつになんとも、
こっけいになるんです。
「道を求めるのにどん欲な修行者」
と
「仙人」で。。。。
俗(修行者)と、俗から離れた者(仙人)、で。
しかも、俗の者(修行者)は、俗から汲々として逃げ回る者であって、
俗から離れた者(仙人)は、俗の魅力に参って俗に戻ってきた者、なんで。。。。
なんとも。
ああそうそうこれだこれこれ、と、なにがなんだかわからぬままに、
心の中で快哉を叫びながら、みていました。
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ああ、書いてもあのたのしさ、自分が感じたよろこびは、書けないなあ。。
まあ、そんなもんですね。
だから実際に見るのが楽しいんだし。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
わたしはじつは歌舞伎調というか、狂言調のふしまわし、実はとっても好きなのです。
私には、音楽に聞こえてくるんです。
それがすきで、歌舞伎を見たり、国立劇場小劇場で人形浄瑠璃がかかると聞けば、ちょぼゆかのそばで、太夫さんのつばきがとぶ場所で、耳そばだてて、見てました。
きけば修行僧、あの所作もせりふまわしも「見よう見まね」なんだとか。
でもね。。。。
あれ、見ただけ、まねただけではできないだろうなあ。ご謙遜だよなあきっと。。。
だって、むかーし、
いまの尾上辰之助が舞台に出始めたとき、「天燈鬼」という芝居で、高い金払ったのに、歌舞伎らしい所作も節回しも全くできてない彼をみて「金返せ〜」な気分になって、以来歌舞伎座に行かなくなった自分を思い出しましたもん。
とにかく、聞けるとは思ってなかったすてきな音楽をきかせてもらった気分でした。
−−−−−−−−−−−
そうそう。。。
修行者甲、じつに喜怒哀楽が激しいんです。
いってみれば、これが、きっと仙人が、「悟った」といってた世界の姿なのかなと。
怒ったり、うれしかったり、悲しんだり、惚れ込んだりが、どっぷりできている世界。
なので、上に「俗」と「俗を離れた者」と書いたのは、じつは対立項じゃ、ないんでしょうね。
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