「信じる」傲慢

2007年12月6日
ミクシの日記にニュース、書きました。
環境:東京電力、活断層過小評価
http://www.asahi.com/science/update/1205/TKY200712050326.html

「東京電力は柏崎刈羽原発建設のために80年代に調査した海底断層について、一転、活断層だったことを認め、その長さも実際には約3倍とした。

評価し直した結果でも「耐震設計の想定内」としているが、中越沖地震では想定を超える揺れが原発を襲った。

国の審査でも、東電の評価が妥当との判断を示していた。」

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こういう「調査」は、新潟の刈羽にかぎらないと思います。

東電のみの問題ではなくて、国の審査も、電力会社の調査を追認するだけの甘甘審査だったはず。

国は国策(エネルギー政策)として原発を推進するなかで、本来あるはずの障害(活断層や東海震源等)を「過小評価」することで、商業運転のベースに無理矢理のせてきたのでしょう。

夏頃出た雑誌(東洋経済か何か)に、
「原発安全は国の不当表示」と大見出しで載っていましたが、その通りだと思います。

いまからでも自然的リスクの再評価してほしい。
それを本気でやったら、経済的にペイしないのが、日本での原発なんじゃないか?と疑ってます。

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日記はここまで。
ミクシではこのほかに虚偽の有機表示をつけたジャムの報道も貼ったんですが。。。

コメントに
「なにを信じていいやら」と書いていただきました。

んで私のレスポンス2つ。。

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私は何も「信じ」てはいけないのだと思います。

信じる、というと、データなしによいものと思いこむ、という
感じがするので。。。。

せめて、あがってきてるデータを見て、「評価」をすることが大事なんじゃないかな、って。

さらにはそのデータも、その正確さや精度には、データ元からの情報を元に、ちゃんと留保をつけておく。

そこまでしないと、暮らしていけない気がしてます。。。
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ときどき
「もうなにも信じられない!」って嘆く人がいるけど、
そもそもが間違ってる気がしてるのね。

「あるある」ねつ造がニュースになったとき、
「たくさん納豆買ったのに、もうなにを信じたらいいのか。。」
ってぼやく一般人がニュースに出てきて「一般人の反応」にされてたけど。

なにかの権威や情報を「信じて」しまったら知の終末だと。
でも言うと反感買うから、言わないでいたけど。

「信じる」のでも「もう何も信じられない!」のでもなくて。
この情報の確度は何%くらいだろう?
なにを前提としてるんだろう?
そういう思考の働きって、どんなときもあっていいだろうと思うんだよね。

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ダイアリノートへの付け足し。
ついでにいうと、
何かを「信じる」というのは、自分のリスクでするもんなんだよね。

データに対する自分なりの評価として「100%真実」と評価した、ということなんだから。

評価が謝っていた、というだけ。
評価方法が甘かった、んだわ。

それを棚上げして「何を信じたら。。」というのは、大衆の側の傲慢、に思える。

権威に向かって「俺を導け!」とうそぶいてる巨人「大衆」の図。

あ、私も大衆、という前提よ。

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